原土井病院について

原家の歴史

私達、原土井病院のこと -原家と福岡の医療の歩み-

-400年前-江戸初期より筑前黒田藩の藩医であった原三信。

以来、子孫は代々「三信」の名を襲名しています。
なかでも第六代原三信は長崎出島に留学、阿蘭陀外科免状を受け、日本で最初の西洋解剖書「レメリン解剖書」を翻訳。有名な杉田玄白による「解体新書」より90年も遡る日本最初の解剖書を著しています。

また福岡にお住まいの方には原三信という名前に聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。大博通りにある原三信病院は13代原三信が明治35年に設立した九州初の私立病院です。 福岡に医家として根をおろした原家は原三信病院のほかにも病院を運営しています。 13代原三信の女婿であった原實は当時の乳幼児死亡率の高さを憂慮し、昭和元年に福岡市天神に小児科医院を開業。

戦中、戦後は九州高等医専(現:久留米大学医学部)小児科教授として後進の指導にあたります。 原實の長男・養一郎は小児科医院を受け継ぎ昭和55年、西区野方に移転、生の松原原病院(現:福岡リハビリテーション病院)を開設。次男・敬二郎は昭和29年、南区若久に新病院を建設(現 恵光会原病院)。三男であった原寛(現:原土井病院理事長)はまだ理学部で学ぶ学生でしたが病院建設に駆り出され、事務長役として尽力しました。 その事が契機となり、寛は医療の道へ軌道修正。九州大学医学部を卒業した後、昭和42年に原實の三番目の病院として「原土井病院」を設立するに至ります。33床での出発でした。

系列病院の紹介

1902年(明治35) 原三信病院372床
1954年(昭和29) 恵光会原病院220床
香椎原病院250床
1967年(昭和42) 原土井病院556床
1980年(昭和55) 福岡リハビリテーション病院228床
1987年(昭和62) 誠和会牟田病院163床
原土井病院について

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